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さっきの続きですけども。

(えらく学びにアツい私です。。)


「これはこうです」「これが正解です」という枠をつくるものは、私としては学びとは言えないです。

外側に正解を探しに行くことは、誰かに対する依存になったり、自分の上に何かや誰かを置いてしまうことになるので、私はそこにすごく気をつけている。

教育はそうなりやすいので、本当に注意が必要だと思う。


大人になって思うのは、本当の学びとは、「枠外し」だということ。


自分が身に着けてきた思い込みや常識といった枠を壊してくれるもの。


自分に対して主体的であり、自分の感覚を信じ、覚悟をもって能動的に生きていると、学びが正解探しではなくて、自分の感覚の答え合わせになっていく。


服部みれいさんがよく言うように常に「自分の操縦席には自分が乗る」を意識すること。


学びの本質的な目的は、より自由に、より自分らしく、自分を愛で満たしながら、どっしりと地に足をつけて、愛と応援とインスピレーションを受けてしあわせに生きることだと思うからです。


私の恩師が言っていました。

「ブッダやイエスさまみたいな大きな解脱(悟り)はできないし、できなくていい。私たちはプチ解脱を繰り返すために生きている。あ!そういうことか!と悟る。そうすると自由な場所に出られた気がする。でもすぐに気が付く。さっきよりちょっとだけ広い枠の中に出られただけだったと。そしてもちろんそれでいい。さっきのプチ解脱の感覚をからだが覚えているから。そしたらきっとまた次にプチ解脱をすることができる。それを繰り返すとだんだん上手になってくるし、愉しくなってくる。そうやって少しずつ少しずつ広い場所に出て行って、少しずつ少しずつ自由になっていけばいい。それが人生なんだと私は思っている。」


人生って、学びっておもしろいですね^^



Love,

shoko




学校での勉強を好きだった人って少ないと思う。


かっちゃん(夫)なんか、学校の記憶をほぼ消去している。

「これ小学生ん時習ったよね~」とか言っても「いや。自分は習っていない。」と言う。

「いや、これは絶対やったって!」と詰め寄っても「多分、自分たちの学年はやってないんだと思う。」と言い張る。(学年いっこ違うだけ)

そんなわけあるかよ~なんだけど、これうちではよくあるやり取り。


私はかなり記憶している方だとは思うけど、それは勉強が結構好きだったから。

どういう所が好きだったかと言うと、「あ~!それってそういうことだったのか~」って整理がつくからなんです。

日ごろ、ちょっと疑問に思っていたり、ここにはこういう法則がある気がするなぁ、とか思っているのを学校の授業で「これはこうなってるんだよ」って教えてもらうと、なるほど~となるわけで、とても面白いわけです。

それに、新しい考え方や視点を示してもらうと、「そういう見方もあるか~」とこれもまたとても面白い。


そして、学生時代から変わらず大人になってからも、私はとても勉強が好き。

と言うか、勉強が日に日に楽しくなっていく。


ここから勉強を「学び」という言葉に換えますね。


大人になって、日常的に本当にいろんなことが起きます。

現実に翻弄されている内は、そこから「学ぶ」ということより、「なんでこうなったんだ~」ってびっくりしたり不安になったり怒ったり悲しんだり、の方が強い。情念の部分が刺激されるわけです。(これ、刺激されることに意味があるんだけどね)


でも、だんだんと成熟していくと、上流に目がいくようになる。

根本的な部分に「今目の前で起きている現実」の原因があるのではないかと気づく。

「現実」は自分の外側で起きているのではなくて、自分の内側を反射しているだけなのではないかということに気づくわけですね。


そうなると、現実を見て自分を学ぶという、成熟のスパイラルに入っていきます。


ここで、先に述べた「学校での学習」というのが、日常の気づきに対する整理をしてくれる機能を持つってところに戻ります。


日常の中で、自分自身に主体的に向き合っていると、現実がすべて「学び」「気づき」のサインのオンパレードになってきます。


このオンパレードをひとりで消化し、整理できればいいんだけど、これはなかなか難しい。


そこで、その学びを整理し、繋げ、より高く広い視野を与えてくれるのが、私にとって本であり、講演会やWS、おはなし会だったりする。

信頼できる人たちとの会話、対話もそう。

また、気づいたことをこうやってアウトプットすることも、とても良い整理になります。


学びって、情報ありきではなくて、自分の主体性ありき、なんですよね。

そして、主体的に気づいたことをもとにしているからこそ、情報が生きてくる。


子どもたちの学びに対しても、ひとの人生に対しても、私は極力介入しないように気を付けたいなと思う所以です。


自分でやりたいと思うこと、自分で感じること、自分で気づくこと。


学びの一番大切な部分は、そこに在ると思うから。


それに加えて、自分の学びをひととシェアできるのは、格別な喜びです。



今日もこの文章を書けてスッキリ♥

早速ブログを読んだよって言ってくれる方もいらしてしあわせを感じています。


今日は「学び」についてでした~。


またお会いしましょう♪



Love,

shoko


ぽつぽつとブログを再開しようと思います。


待っていてくださっていた方がきっといらっしゃるのかしら。

もう丸二年も書いていないのに、いまだに「祥子さんのブログが好きです」と言ってくださる方がいらして、予想外過ぎて驚いてしまうことがあります。

そしてそのたびにめちゃんこ嬉しくなって「また書き始めよう、絶対!」と心に決めては腰が上がらず、延びて延びて今日になったという、、、どうしてだろう。

なんせこの二年ずっとブログを開けなかったのです。

しかししかし!ともあれ。

2022年織姫と彦星が再会した七夕の翌日の今日、私もブログを再開したいと思います!(のっけからだじゃれか?)


きっとこのブログを初めて読んでくださっている方もいらっしゃると思います。

はじめまして。

私は『風とたね』という場を主宰している祥子(しょうこ)といいます。

日々、感じること考えていること、あふれ出るままに、ここに書き記していこうと思います。

どうぞよろしくお願いします。


昔から文章を書くのが大好きで、それ自体は止まらずにあふれ出すものだから、ブログを書いていなかった二年間も、インスタグラムにはいつも言葉を綴っていましたが、こうやってキーボードを叩くと、言葉の産まれ方がやっぱり全然違うなぁということに気づきます。

どっちが良い悪いではなく。


まだ九つくらいの頃、キーボードを叩くのに夢中になっていた小さな女の子の私と、まあ驚くことに四十年以上も生きてきて大人になった私が、実は本質のところで何も変わらずに、夢中になって言葉を生み出し続けている。

人生の結構最初の方に「今世でやりたいこと」なんて見つかってるものなのかもしれません。


そしてまた、こうしてブログを書くというのは、わたしにとってのクリエイションでもあり、自分との再会の時間でもあり、目的もゴールもない、最もピュアな部分を世界に対して開くという、私にとっての静かなチャレンジとも言える、そんな行為なのです。


とても静かな場所で、純粋な自分自身で、まっさらな言葉を世界に紡ぎ出していく。

そして素晴らしいことに、そこには時折、訪問者がやってきてくれます。

純粋なわたしたち同士で、静かに向き合うともなくふたりで座っている。

言葉という現れ方をしたとりどりの水が湧き出る美しい泉の前で。


Hello, again.


今日も訪ねてきてくれてありがとう。


またここで会いましょう。



祥子


最近西の空を見ていますか?


それはそれは美しいです。


2020年になって、天候のことでいくつかの特徴があります。


まず風が強いこと。

そして雨がよく降ること。

空が美しいこと。


風が強かったり雨が降ったりすると、ふと違う次元、違うタイムラインに入ってしまったかのような、時が止まっているかのような、不思議な感覚になるときがあります。


そんな時には、自分の内になる「静かな場所」にそっと降り立っていく自分を赦してほしいと思います。

時代や社会の状況は、何だかものすごく波立っているように見えるけれども、戻るところは、いつもそこです。


海の底から、黙って世界を見てみましょう。

ニュートラルな視点で見てみましょう。


今も雨が降っているけれども、最近の雨には、はっきりとした濃淡があります。

だけど、私たちの悪い癖で「今日は一日雨だった」としてしまうところがある。

天気予報を見ていると、一日が「傘マーク」で表されるしね。


でも、そうではないんです。

物事をそのままに見る練習だと思って、観察してみてください。


一日の内、ずっと同じ調子で雨が降っていることはない。

ずっと同じ暗さでもない。

なんなら日が差す時間もあったりする。

夕方にもなれば夕陽が綺麗に見えていたりする。


雲は何層にもなっています。

高い所にある雲、低い所にある雲。

流れ方、流れるスピードが全く違うはずです。


世界もそれと同じです。

同時並行的に色々なことが起きている。

「今」の状況は刻一刻と変化し、気づいたときには、驚くほどの変化が起きていたりする。


それなのに、人間って「ひとくくり」にする癖があるんですよね。

一日の内に、刻一刻と変わっている天気を、ちゃんと見もせずに「今日は雨だった」とするような、そういう癖がある。


「ひとくくり」にすること、「これが真実だ」「これが正解だ」「これが善だ」と断じることは、実はとても危険です。


そのままに見ることをせずに、断じてしまう、ということは、言葉を変えると「思考停止状態」です。

もっと言うと「奴隷状態」。


自分で見ない、自分で感じない、自分で考えない、自分で判断しない。


自分で見てもない、自分で感じてもいないのに、「これが真実だ」と言うのなら、それはそのひとの考えではない。

他の誰かの考えです。


だからいつも不安で、よくわからないのに恐怖心だけが増殖する。

「こうしていれば大丈夫ですよ」「みんなこうしていますよ」という呼びかけに飛びつく。

自分のからだからのサインは無視してでも。

本当にそうなのか、調べもせずに。


これは今までずっとそうだったのが、コロナの件によって、ものの見事に現実化しています。


「教育」(学校だけでなくマスコミや社会による教育も含め)の弊害はもちろんあります。

だけど、自分を再教育する時代に、いよいよなってきました。


自分の感覚を取り戻すために、一番の方法だと私が今思っていることを書きますね。


それは「自然を観察すること」です。

その一環として、トイレに行きたい時にすぐさま行ってください。

からだは「自然」ですから。(そのひとの「所有物」ではありません)

自分のからだを観察するのに、尿意、便意はとても重要なポイントです。

同じ部署のひと、隣に座っているひと、友だち、パートナー、、、他の誰とも違う、自分だけのリズムを、自分のからだが刻んでいる証拠だからです。


また、トイレに行ったら、無意識にではなく、一生懸命出してください。

意識的に出しましょう。

不快や快感に敏感になってくると思います。


自分を再教育する、と言いましたが、ここで言う「教育」は従来のような「飼いならし」や「コントロール」ではありません。

真逆です。

「野生を取り戻す」ということです。

だから、自然、そして一番身近な自然である自分のからだを観察することから始めましょう。


今、このことはとても大事なことだと感じていて、いてもたってもいられなくなってこのブログを書きました。


少しでも引っかかるところや、気づきがあったら、ぜひ実践してください。


いつの間にか

かいならされ

コントロールされ

感覚、感情、思考を乗っ取られていないか。


そして、その結果、

「人生の時間」そのものを盗まれていないか。


これは、今、わたしたちが真剣になって向き合わなければいけない問いです。


今日もまた溢れ出るままに書きました。

お読みいただき、ありがとうございました。


Love,

Shoko







前回書いた人生のつわり期についてもうちょい補足させてください♡


そもそも女性のからだというのは、「いのちをうみだす」というちからを持っています。

(これは、生理が終わってるとか、子宮がないとか、妊娠したことない、とかには一切関係のない話です。)


つわりっていうのは、「自分ではない何か」である「新しいいのち」が体内に宿ったことにより、宿主である母親が何かしらの影響を受けるという状態。


ひとによっては、好きな食べ物が変わったり、大量の汗をかくようになったり、吐いたり、匂いに敏感になったり、猛烈に眠くなったり、ずっと氣分が優れなかったりします。


要するに「今までの自分」ではない、「今までの自分」ではありえなかった状態に陥るわけです。


新しいいのちという、途轍もないエネルギーが入ってくるんだもん、そりゃそうなるでしょう。


つわりがあった方がいい、なかった方がいい、とかって議論ではなくて、具合が悪くならないよ~ってひとも、精神的にいつもの状態じゃなくなったりします。


超ラッキーなことが起こるのも、妊娠期の特徴。

私も妊娠している時、40万円当たりました笑。

多分赤ちゃんが必要だと思ってそうなったんだろうと私は確信してる。

世界って、その時必要なものをちゃんと与えてくれるんだ♡って思いました。


で、この「つわり」っていう状態が、赤ちゃんを妊娠している、していないに限らず、成熟期を迎えた女性には波のように繰り返し訪れるのではないかという話。

(この「成熟期」は年齢関係ありません。私の場合33歳頃だったと思う。)



「わたしはこのままでいいのだろうか」という思いが湧いてきた時。

これは人生における「受胎」です。


「新しい自分」の種がまかれた瞬間です。


そして、その種は、あなたの中で少しずつ大きくなっていく。


ここで葛藤が起きるひともいるわけです。


「従来の自分」と「新しい自分の種」とのせめぎあい。


人間には「ホメオスタシス(恒常性)」というものがあるし、蓄積してきた過去の記憶がどうしても変化に抵抗しようとする。


「変化はヤバいよ」

「せっかく手に入れたものを失うよ」

「今のままがいいよ」


こうささやくわけです。


でもさ、ささやかれても、「新しい自分」の方に行きたいも~ん♪の方が簡単に勝ってしまえばなんてことないじゃん。


しかし、新しい自分に変化することは、たいがいのひとにとって、めちゃくちゃ恐怖です。


なぜって?


この「新しい自分」ってね、足していくことではなく、手放していくことを強要してくるの。


今まで「頑張って」やってきたこと

今まで「頑張って」手に入れてきたこと

「今の自分」じゃダメだからとあれもこれもと足してきたこと


仕事

人間関係

お金

地位

知識

経験

成功則

・・・・・・・・


それがないと生きていけないと思い、必死でしがみついてきたそれらのものを、何と言うことでしょうか、「手放せ」と命じてくるわけです。


なぜそうなるかって言うとね、「新しい自分」というのは、「本来の自分」と同じ意味だからです。


新しいわたし=本来のわたし


これ重要ポイント。


足し算して「新しい自分」になっていくフェーズももちろんあったわけです。

でも、そのステージではないわけよ、ここで話している「妊娠」は。

何と言っても「成熟期に入ったおんな」に訪れる妊娠の話ですからね。


今まで、あれもこれもないと生きていけないと思い、手に入れてきたものたち。


そして、そもそも「あれもこれもないと生きていけない」という思いこみそれ自体。


これまでの人生で、たくさんたくさんくっつけてきたあれやこれやを手放していくことで、「本来のわたし」に戻っていくフェーズだということです。


「本来のわたし」に不必要なものは手放していく。


ええええーーーっ!!?

超難しいじゃん。

私にはできない・・・。


と思います。

はい、私も思います。毎回。


あれもこれも必要なんだよ~~涙

と泣き叫びます。毎回。


でも、おんなに生まれたあなた。

あなたはラッキーよ。


だってね、そんな時は

からだに従えばいいんです。


私たち、からだに従い方をちゃんと知っているはずなの。


毎月毎月生理くるじゃない。

ホルモンが荒波のように乱高下するじゃない。

眠い時は暴力的に眠いじゃない。

〆切だからって、生理前やら更年期やらに全力出せないじゃない。


どう抗おうとしても、からだは常に変化し続けていて、それに乗った方がどうやらイイようだぞってことを、このブログの読者の方は、もうたぶん気づいているはず。


人生のつわり期もそう。


できんもんはできん!!

からだが動かん!!(ねむい)


だから、とことん「役立たず」になってくださいってことなんです。


逆ギレするんじゃなくて、ちゃんと周りのひとに「できないんです」って伝えるの。

「助けてください」ってヘルプを出す。


そういう自分を絶対に責めない。


「がんばる教」という宗教の熱心な信徒だった自分を、もう手放してあげるの。


世界があなたに甘々なのを、ちゃんと感じてほしい。


たくさんのひとがあなたに優しくしたがっていることを、手を差し伸べたがっていることを、感じる時期です。


世界が差し伸べている手を振り払わないで。


世界の優しさを受け取れ始めた時、シンクロやラッキーなことが起こり始めると思う。


そして感謝で満ち、それが溢れだした時、さあいよいよ陣痛が始まります。

(次回へ続く・・・?笑)


Love,

Shoko




今回、結構大事な話を書いてるな。

言葉が湧き出るままに書いてます。

ゆっくりじっくり読んでみてください♡

人生の中で思いっきり「役立たず」になったことがありますか?


私はある。


それは、教職時代最後の年、小学三年生を担任した時のこと。


担任を受け持ってすぐ、四月に妊娠した私は、そこから産休に入るまで、結構長らく「つわり」期だった。


ずっと具合が悪い。

ずっと車酔いしている感じ。

吐き気がする。

生唾が出てくる。

食後はすぐに眠くなる。


こんな状態での担任。

普通に考えて「仕事」になるわけがない。


いつも具合の悪い先生・・・。

「役立たず」以外の何者でもない。



なのにね、なのに。


校長先生を始め、どの先生もめちゃくちゃ優しかった。


校長先生と教頭先生は、三年生の隣の教室に校長室の来賓用ソファを抱えてもってきてくださった。

「いつでもここに横になってくださいね」と。


教室にずっといてくれた先生は、丸付けをほとんど全部してくれた。

(丸付け業務って結構な量なんだよね)


どの先生もいつも配慮してくれて、いつも優しい声かけをしてくれた。


そして、子どもたち。

「先生、具合悪かったらいつでもソファに寝に行ってね」

「先生、無理しないでね」

「先生の子どもだから、きっときっと可愛い子が生まれてくるよ」

「どんな名前が良いかなぁ」

・・・・・・・・


「子どもたちのためになること」

つまり、良い授業をすること、リーダーシップをとること、いつも笑顔でいること、元気な先生でいること。

そんなこと全然できなかった。


それなのに、もらうのは愛ばかり。


ある保護者さんからは「先生がつわりで苦しい姿も隠さず見せてくれたことは、子どもたちにとって素晴らしい学びです」という言葉をいただいた。


何の役にも立たないのに、喜ばれていた、という経験。


何も頑張れなかったのに、愛をもらった、という事実。


これは、私の中で、これまでの価値観を180度ひっくり返す、ものすごい転換点だった。



それまでは、「役に立つ」ことが私の存在意義だった。

「頑張る」ことで「そこに居ていい」という許可を与えてもらえるのだと思っていた。


だから、役に立てるように頑張ったよ。

倒れるまで頑張った。

それでもまだ足りないと思っていた。

足りないから「問題」が発生するのだと。


でも、妊娠し、つわりになったことで、強制的に「役立たず」になった私の前に繰り広げられるのは、それまで見たこともない優しい愛の世界だった。


今日、お風呂の中で、超絶役立たずだった自分が、存在を赦され、愛されていたあの期間を思い返しながら、とんでもないことを発見した。


「あれは妊娠期だったから、特別に起こったことなのかなぁ」とぼんやり考えていた私の中で「違うよ」とはっきりとした声が聴こえた。


違うよ。

おんなは生み出す性。

だから、いつでも「出産」できるし、出産前はつわり期もある。


出産ってこどもを産むことだけじゃない。

おんなはなんでも生み出せる。


しごとやお金はもちろん

パートナーや自分に最適な環境まで


自分のよろこびは自分でうみだせるの。


そして、よろこびって、いつも新しく新鮮になるという性質をもっていて、だから、おんなのひとは人生を通して「出産」と「つわり」を繰り返す。

それはまるで波のように。


新たなよろこびを生み出そうとする前は、苦しい時期がある。

ある意味で忍耐や我慢の時期が。

先の見えない不安にさいなまれる時期。

冴えない自分に嫌気がさす時期。


それはもう自然なこと。


だから、今、笑顔になれなくても、眠くて仕方がなくても、吐き気がしてても、もやもやしてても、大丈夫。


それ、つわりです。


あらたないのちをうみだす前の時期。


どんな赤ちゃんが、どんないのちが産まれるのか、今は見えなくて不安かもしれない。


でも、今、ツライってことはさ、出産の前ってこと。

あなたの子宮の中に「あたらしいいのち」がもう存在しているってこと。


大丈夫、大丈夫。

焦らないで。


今は

不安で当たり前。

怖くて当たり前。

つらくて当たり前。


それはいつかかならずあなたの前に現れる。

祝福とともに生み出される時を待っている。

あなたから養分をもらい、ふかふかの子宮の中で少しずつ少しずつ育っている。

それはどんなかたちであれ、「よろこび」そのものに他ならない。

あなたはあなたの中に「よろこび」を育んでいる。


だから、

つわり期のあなたは、周りからの愛を受け取るのがおしごと。

「役立たず」な自分を赦すのがおしごと。



世界は優しく、そして愛に溢れていると、感じるための期間。


それが人生の「つわり期」です。


まるで自分が「役立たず」に思えちゃう時期は、目に見えないところでよろこびを育んでいるんだって思ってほしいな。


あなたが生み出す新しいよろこびの誕生を、世界は期待に満ちて待っています。


Love,

Shoko


久しぶりに風邪っぴきのしょうこです。

またまたパワフルな満月前のデトックス。

見事にからだとこころに訪れました。


こころ揺さぶられる言葉を投げかけられたり

自分自身とまたしっかりと向き合わなければいけない出来事が

もう見事なまでのタイミングでどっかーんとやってきた。


今回、こころ揺さぶられ、なんならちょっと傷つく言葉をかけられたんだけどね、

そこで自分の中に湧き上がる感情や思考と、目の前の相手とは全く何の関係もないんです。


例えば「あんたってバカじゃないの」と言われたとする。


そこで、「バカにされた」「見下された!」「ひどいことを言われた」「あんたに言われたくない」「あんなことを言うなんて、最低なひとだ」「バカと言う方がバカだ」とか、自分の中に湧き上がったとする。


でも、それは「わたしの認識」であって、「事実」ではない。


事実は「Aさんが私に向かって『あんたってバカじゃないの』と言った」ってこと。

That's all.

それだけ。


そこに怒りが湧き上がってくるとしたら、それは、まぁ、こっち側の問題なわけです。

(自分を責めるとか、反省するって意味じゃないよ)


今回、私が言われた言葉は「お金にもならない夢を追ってどうすんだ」的な言葉だったんだけど、そこで揺らいだのは、10%くらい「お金にもならない(かもしれない)夢を追うのはリスキーだ」という思いが自分の中にもあるから。


そう言われて初めて、自分の中にもそういう考えがまだ存在することを認識したのね。


だから、今私の中にあるのは、「それを言ったAさんは、世代も違うし、価値観もえらい違うし、だからまぁそう考えるのも無理はあるまい。」という途轍もなく冷静な感想。

「ま、Aさんだったら、そう考えるだろうね、うん。わたしは違うけど。」ってこと。


そして、自分はお金を稼ぎたいわけではなく、循環を大きくしていきたい、と考えていること。

お金や影響の循環を大きくして、自分の大切なものを大事にしたいと思っている、自分を生きたいと思っているひとたちに、「大丈夫。やれるよ。」と示したいと思っていること。

それは、今やってることと1mmもズレてなくて、そういう環境を創ることが私にとっての喜び、生きる意味なの。


「リスクや失敗はできるだけ避け、無難にいく」

「人からどう見られるかを常に考え、批難を受けるようなことはしない」

というAさんの行動規範、判断基準は、「Aさんの思い込み」であり、かつ「私の中にもある思い込み」であることを発見した。


そういう「思い込み」を見つけては手放していく。


そうやって軽く、シンプルに、本質的に生きたい、と私は意志しています。


だから、どんなに自分にとって悪役っぽいひとでも、私の人生に現れたからには、めっちゃくちゃ意味のある配役なんだよね。


誰の生活にも、人生にも、そういう配役のひとって現れると思うんだけど、そのひとはそういう役をしてくれているだけです。


本質は、「自分の中の思い込みに気づかせてもらっている」ということ。

気づかせてもらって、「もっと軽くなれるよ~」っていうメッセージなわけですな。


誰かから言われて重ーくなった言葉は、「その思い込みはもうあなたには必要ない」っていうサイン。


手放して軽くなろう♡


これ書いてたら、だいぶからだも楽になってきた。

アウトプットの大事さよ。

読んでくださってありがとうございました^^


Love,

Shoko






「きょうはおやすみする。ほいくえん。」

と朝起きてすぐに宣う三歳児。


一瞬よぎるのが

「今日おやすみしたら、ずるずる行きたくなくなるんじゃないか。」な~んて、私の中にもまだまだある変な思い込み。


娘の目を見ると、うるうるとしたまっすぐな瞳。


なるほど。

これは娘の正直な、まっすぐな、純粋な要求であると受け取った。


四月から通い始めた保育園でも楽しさを見出し、朝から夕方までの流れもつかんで、あんなに泣いて登園していたのが嘘のように、むしろ堂々とした最近の娘。


でも、とにかく、

「今日はおやすみしたい」のだ。


それ以上でもそれ以下でもなく、それが今朝起きた時の彼女の中から湧き出た正直な思いなのであった。


はい。OK。

おやすみの連絡を入れさせていただきました。


午前中、私はジムと支払い業務があったので、娘は私の実家へ。

ちょっとだけ公園で遊んで、午後は家に帰ると言うので、一緒に連れて帰った。


今日の午後は私も猛烈に眠かったので、お布団に寝ていたら、いつの間にか娘も隣で寝ていた。

そして、そのまま彼女、三時間半爆睡。


疲れてたのね。

急に暑くなったもんね。



からだとこころの要求に忠実な娘は、寸分の狂いなくすべて自分で決めている。

まだ三歳なので、その要求が通るか通らないかは、私の判断次第な時も多いけど、娘と向き合ってみると、「そう決めているんだ」ということだけがまっすぐに伝わってくる。


彼女の決断の潔さと狂いの無さには、毎回グッとくる。


だから、私はその邪魔をしないようにしたいし、でも、こっちの言い分も伝えるし、毎回真剣勝負。


からだ、こころ、魂が直通でツーツーの彼女は、私の先生でもある。


2歳の頃、私が勝手に決めた保育園へ連れて行った時は、「もうママの家には帰らない」と家出した。


そして、「三歳になって、四月になったら、〇〇保育園に行く」と宣言し、そして、その言葉通り、すぐに慣れて楽しく登園中。



「こども」ってなんだろう。

40年地球で歳を重ねてきた私より、こどもの方が「未熟」だとは決して決して思えない。

地球的に「できないこと」「慣れないこと」はもちろんあるし、そういう面では私の方が習熟しているけれど、「未熟」ではない。


からだが小さいし、未発達だから、できないことがあるから、慣れてないから、分からない部分があるから、言語化ができないからと

私たちはこどもを「未熟」で「教育すべき」「導くべき」存在だと、当たり前のように思ってしまうけれど、それは大きな大きな大間違い。


本当に成熟している大人、成熟しようと望み続けている大人は、それをよく分かっている。


だから、こどもは大人の先生役をしてくれている愛の存在に他ならない。


余計なものをくっつけくっつけして、それを勲章のようにぶら下げるような在り方は、「成熟」とは言わないよね。


でも、余計なものをくっつけくっつけしてきた自分を、また裸にしていくプロセスが「成熟」なのだから、くっつけくっつけしてきたことも、これもまた必要な過程であったと言える。


冬あってこその春。春あってこその夏。夏あってこその秋。秋あってこその冬。

のようにね。


そう。

何はともあれ、裸になっていく、自分になっていく、喜びの存在になっていくために、私たち大人にとって、こどもほどの先生はいない、ということなのです。


で、いつまでもこどもの世話になってないで、はやいとこ裸んぼの、自分そのものの、喜びでいっぱいの、「あぁ。大人って楽しそうだなぁ。」とこどもに憧れられるくらいの愉快なおとなになりたいものだと、眠りこける三歳児の背中をみながら思うアラフォー女子でした。



Love,

Shoko





受け取るのがヘタな子だった。

まだ素晴らしい自分になれていない内は、受け取ってはいけないとさえ思っていた。


ずっと昔からそういう風に思い込んでいたことに、この二週間でようやく素直に納得することができた。


私の歴史の中で、特につらかった高校時代を振り返ってみるね。

そして、今の私の望みを書きたいと思います。


さて、高校時代。

普通科に進み、学校は「予備校」としか思っていなかった。

だって学びたいことがあって、行きたいところがあって、いつか辿り着きたい場所には素晴らしいもの、素晴らしい自分が待っているはずだったから。

より多角的で高い視野をもち、「地球に生きるすべての命がしあわせに生きる」という笑っちゃうほど高い理想を叶えたいと思っていた。

それが叶えられないうちは、自分はしあわせにはなれないと。


中学時代から持病のように抱えていた胃痛は、高校になってますますひどくなり、椅子に座っていられなかった私は、校舎三階の音楽室の裏で、授業をサボっていた。


とても変わった子だった私に、それでも友だちやクラスメイトは優しくて、胃が痛くて保健室に寝ていたり、音楽室裏でサボっていた私に、教室に帰ってくるなり

「大丈夫?」

「しょうちゃんがいないってみんなで心配してたよ」

「また胃が痛いの?」

「ノート見せてあげるよ」

そう声をかけてくれるのだった。


自分の中が忙しく、ビジー状態だった高校時代、そういう友だちのやさしさを、どれだけ受け取れていただろうか。

今振り返ると、ほとんど受け取れていなかったと思う。

でも、その愛はそこら中に溢れていたものだったんだ。

私が感じていなかっただけで。

いや、感じてはいけないと思い込んでいただけで。


自分にないものばかり数えて、そこに在る愛に気づかない傲慢さ。


受け取れないということは「謙虚」ではなく「傲慢」なのだと、今ならはっきりと分かる。




そして現在。

2020年夏至。


自分を満たすものを探していた私は、のっけから満たされていたことにようやく気付いた。


満たそうとしていた自分のうつわには、最初から愛がてんこもりだった。

「ない」と思っていたから、満たされたと思った瞬間に、失うことが怖かった。

満足が不安や恐怖と隣り合わせだった。


「受け取れる」っていうのは、自分の中に無いものを「自分に与える」もしくは「誰かに与えてもらう」という意味だと勘違いしていた。


真に「受け取れる」っていう状態は、もうすでに在ることに気づけるという意味だ。


「自分満たし」って、もうすでに在る愛を感じる感度を上げるってことだ!!


「ない」と思い込んでいる状態では、感じることもできないから


温めたり

ケアしたり

したいことをしたり

感情を大切にしたり

自己対話したりするんだ。


「自分満たし」って、自分がほしいもの、必要なものは、もうすでに内側にあるということを感じる道のりなんだ。


感度が上がってきたら、自分満たしはスパイラル状に質が上がっていくので、だんだん魂の奥深くまで感じることができるようになる。


そうなってきた今、私は自分の何がどうしても受け入れられなかったか、知ることになる。


それは、理想の高さ。

みんながしあわせに暮らす場所やシステムを創る、という自分のもつ夢の大きさ。


だって、その理想の高さや夢の大きさは無力感も一緒に連れてきた。


今の私に何ができると言うのか。

こんなちっぽけな私に。

一生懸命になりすぎて、倒れるまでやってしまう私に。

何者でもない、この私に。


セレクトショップとスコレーを主宰しながら、私はリハビリをやってきた。

自分の高い理想は、少しの間置いておいて、

からだの声を聴きながら、今の自分に嘘をつかない、無理をしない、リラックスする、という練習。


この二年間というリハビリ期間は、私にとってとても重要な過程だった。

この期間に再会したり、初めて出会ったり、共に濃密な時間を共にしたひとたちは、きっときっといつか空の上でそう約束してきたんだろうと思う。

ひとりひとりが、私の魂に問いかけてくれた。


「あなたが本当にしたいことは何?」


そして、こんな声が聴こえる。


「準備ができたら教えてね。いつでも応援するし、力を貸すよ」と。


昨日は夏至、蟹座新月、日食でした。

私の意図、意志をこのブログで放つ予定だったけど

「眠い」というからだに忠実に眠っちゃったので、今日書きます♡


高い理想、大きな夢を受け入れます。


私は、わたしの在り方、ちから、愛のすべてで、新しい事業を立ち上げます。


みんながリラックスしながら、ちからを発揮できる場所。

愛で仕事をできる場所。

互いに学び合いながら、ケアし合いながら、いのちを育む場所。

多くの人が、智慧を共有し(インプット)、自己表現(アウトプット)できる場所。

幅広い年齢の人々が、純粋に楽しむために集まってくる場所。


その場所として、「保育園」って最適って今思っています。

もっと大きな、めちゃくちゃ素敵な建物もほしい。


セレクトショップとスコレーでやりたかったことも、結局それなんだけど

うつわを変化させていく必要を感じています。


このブログを読んで、ワクワクしたひと、智慧やちからを貸してくれるひと、大大大募集中です!


これ書いている今もめっちゃこわいよ~。


だけど、いや、だからこそ


愛を発動させながら、これからも進んでいきますよ~^^


Love,

Shoko




本日天赦日。


最近、周りの高校生たちから学ぶことが多くて、そのすべてに涙が出るほど感動している。

その優しさ、逞しさ、愛の深さ、そして光のようにライト(Light)な思考と愛を原動力とした行動の速さに。


彼女たちを見て、どんくさかったり、プライドが高かったり、葛藤が多かったり、決して生きやすいとは言えなかった自分の高校時代や大学時代を思い出し、思い出しては吐き出し、自分の中でひとつずつ整理がついてきた。


そしたら、そんな自分をまるごと赦すことができたの。


これって初めてかもしれない。


涙出てくる。


若いひとたちは、今の新しい時代を軽やかに駆け抜け、底力をつけ、愛に生きる準備を整えている。


40年生きてきた私は、では、どう在りたいのか。


彼女たち、そして娘たちに見せられる姿、彼女たちに贈るギフトは何か。

つきつけてもらった。


チャレンジし続けること。

手放し続けること。

自分を生きることに容赦しないこと。

そして何より楽しむこと。



風とたねを立ち上げて2年。

本格的にショップを初めて1年半。


スピード感は確実に速くなっている。


これまでもコツコツ手放してきたつもりだけど

本当にこれで良いのか、迫られている。


どっちでも良いよ。

間違いとか正解はないよ。

でも本当にそっちで良いの?

どっちでも良いんだけど

くれぐれも自分と自分を一致させてね。

愛があるか、ないかを基準にしてね。

その練習、してきたでしょ?


そんな感じ。


決意。


このときって、こわいよ。

今でもいつもこわいよ。


だけど、それってさ


自分の世界を

疑うのか

信じるのか


そういう選択でもある。


それならそうだよ。

どんなに勇気の要ることでも

私はわたしの生きる世界を信じる。


手が震えても

足が震えても。


だってわたしが決めてきた

生きると決めてきた

そして死ぬと決めてきた

それだけの価値があると魂の底から信じて生まれてきた

この世界だもの。


Love,

Shoko















しっとりと美しく潤う六月。

慈雨。

水の星である地球、特に日本という国が、最も美しく生き生きと見える季節。


この一、二週間ほど、私の中で鳴り響く言葉。

「月満たしでは満足できない」

「満たされない理由は何?」


私ね、輪廻転生を信じています。

幼い頃から自然と信じていて、中学生の時に読んだ「リトルトリ―」でネイティブアメリカンの教えに触れ、確信をもった。


わたしたちは、幾度も幾度も生まれ変わり、前世から引き継いでいるもの、そして今世でやりたことをもって、今ここに生きていると。


2020年4月から直感を得て、月よみ、星よみの勉強をしているんだけど

その「前世から引き継いでいるもの(無意識)」=月星座

「今世でやりたいこと(目的意識)」=太陽星座なのね。


そして、「わたし」が生まれたその瞬間の天空図で、月星座や太陽星座、そのほかのいろいろな情報も分かるということにも、経験上ものすごく納得しています。


その上で、今日のこの話をしたいと思うの。


「自分満たし」

「自分を癒す」

「自分を大切に」

「自分をケアする」

「自分の声を聴く」


これらの言葉をいつの頃からかよく耳にするようになり、「スピリチュアル」という言葉も一躍市民権を得るようになった。

ちょっと前まではきっと「胡散臭い」「宗教」「非科学的」と言われるような概念や思想、実践も、多くの人々の共感を呼び、そして救いもしてきたと思う。

特に生きづらい人たちにとって、この世界に疑問をいだいたり、自分を責めやすい人たちにとって、「自分を満たす」というその考えが、どんなに、本当にどんなに救いとなったか。


私も勿論そのひとり。


私が「自分を満たす」ということに目を向け始めたのは、10年前。

服部みれいさんの著書に出逢い、冷えとり、白湯、ホ・オポノポノ、アファメーションなど次々実践していった。


そうすると自分のからだやこころの持ちようがどんどん変わっていったよ。

周りの世界も変わっていった。


それまではね、「自分を温める」ということすらしてこなかったのよ。

自分を責めることはすれど、自分を赦すことはしてこなかったのよ。

からだを酷使はすれど、自分を癒すことはしてこなかったの。


だから夢中だったよね。

「自分を満たす」という行為に。


だって本当に世界が変わり始めるんだもの。

「こじれていたのは、すねていたのは、このわたしの方だったんだ」って、ずっと受け入れがたかったそのことを、冷静に、そして温かく迎え入れることができるようになったの。


その間、

一度目の結婚を卒業

運命の土地と出逢い引っ越し

今の夫と出逢い

子どもを育て

また授かり

二児の母となり

家を建て

教員を退職し

不思議な妊娠、流産を経験をしたのち

風とたねの立ち上げと、それはもう目まぐるしく変化していきました。


2年前、風とたねのオープニングで、ヨガインストラクターをお呼びしてヨガイベントを実施した。

その時、たくさんのひとが風とたねに集まってくださったのを見て、自分の中から声が聴こえた。


そうそう。

ここはそういう場所にしてほしかったの。


ひとが集まる場所。

癒しと希望の場所。

何かが終わり、何かが始まる場所。


そうか。

私はこれをするためにこの場所に呼ばれたのね、と心底納得した。


それから2年。

月星座蟹座の私は、自分のホームに職場を構え、好きなものを集めてひとに紹介し、少しずつ仲間を増やして愉しい企画を実行してきた。

家族や風とたねに集まってくれる仲間やお客様を大事にすることが、月星座を満たすことだったし、自分を満たすことだった。

感情の星座でもあるからか、自然、自分の感情も大切に扱うようになった。

私なりの脱皮を繰り返し、勇気を出して少しずつ大きく、そして深く。

しあわせを感じてきたし、満たされていた。


でもね、いつからか、エネルギーの持っていきかたが分からなくなってきて、自分の中に違和感が湧いてくるようになった。


そしてつい先日、服部みれいさんのインスタライブで占星術の女性が言った一言が、ぐぐぐーっと圧力をもって私に迫ってきたのを感じた。


「太陽を生きる」


私は太陽星座が水瓶座。

ゼロから思考する、革新、公平、博愛のサイン。

風のエレメント。



私がなんのために、自分のホームに仕事場を構え、自分が大切だとするものを大事にしてきたか。

なんのために自分を満たし、感情を大切にし、からだの声を聴きながら、余計なちからを抜き、リラックスして生きる環境を整えてきたか。


ちからを使うためだ。

意志するためだ。

今世、やると決めてきたことをやるためだ。


自分を満たし、リラックスできるからだとこころを整えてきたのは、そのためだ。


月を満たすことで終わりではなかった。

太陽を生きるために満たしてきた。

それにはむしろ月星座へのエネルギーフォーカスを手放していかなければならないのではないかと。


もちろん、満たすことに終わりはないの。

でも、そこにだけエネルギーを注いでいると、太陽(今世でやろうと決めてきたこと)に向かうエネルギーがなくなっちゃうんだ。

これは今の私が身をもって実感していること。


太陽を生きることで、また違う意味でのエネルギーが湧いてくる。


今は何の根拠もなく、そう確信しています。


私たち、前世でやり残してきたことを満たすだけでは、本当には満たされないんだと。

月星座を満たすことに終わりはないけど、そこを基地にして、それを船にして、進んでいくしかないんだと。


太陽を目指して。


そう決めてきた。


わくわくしながら、決めてきた。


船出は勇気が要る。


だけど、今世の私は本気。


やると決めてきたことを、目をそらさずに見てみたい。


両方必要なのね、当たり前のようだけど。


月を満たすこと、太陽を生きること。


リラックスすること、勇気とちからを出すこと。



あさっては夏至、蟹座新月、日食。

この大きな節目を、ここまでこしらえてきた船で乗り越え、意志する方向へ進もう。


こわい?


失敗することが?

頓挫することが?

迷子になることが?

恥をかくことが?

間違うことが?


でも


失敗しないために

頓挫しないために

迷子にならないために

恥をかかないために

間違わないために


生きているのではない。


今世定めてきた意志を、太陽を生きるために生きているんだ。


私の新たなチャレンジは、夏至の日に開示したいと思います。


Love,

Shoko



It's my pleasure!(イッツ マイ プレジャー)

っていう英語、聞いたことある?


Thank you.へのお返事で使われることが多いので、

日本語訳に時は「どういたしまして」と訳されることが多い。


でも、私はあえて「それは私の喜びです」と直訳したい。


先週日曜日にアロマクラフトWSを開催したのだけれど、

夫が外に大きなテントとプールを用意して、来てくれた子どもたちを遊ばせていたのね。


もうそれはそれは楽しそうで^^


子どもたちのお母さんたちが「ありがとうございました」って言ってくれた時、

「いやぁ、あれは夫にとって喜びだから。」って口から出てきたの。


で、その時、"It's my pleasure."っていう英語を思い出したんだ。


なんかね、それって良いなぁ、最高だなぁと思った。


“It's my pleasure.”が循環し合う世界って、すごくイイ。


私の喜びがあなたの喜びに。

あなたの喜びが私の喜びに。


その循環は、お金を介していてもいなくても、ひとつの経済だと思う。


例えば夫を例にとるとね。

10代の頃から大工一筋。

彼は家をつくるのが好き。

体を動かすのが好き。

それでお客さんが喜んでくれて、家族も養えて、彼はとても満足。


そしてまた、子どもたちが好き。

子どもと一緒に遊ぶのが好き。

子どもたちが笑っていると幸せ。


だから、仕事をしていても、オフの日でも、彼は大満足なわけです。

その行為にお金が介在しようと、介在しまいと、「喜び」であることに変わりはない。

そして、喜びからする行為は、必ず喜びという循環を生む。


お金が介在したり、「仕事」とか「義務」という意識が強くなりすぎると、

その“It's my pleasure.”の場所から離れていってしまいがちになると思うのだけれど

私たちが戻る場所は、やっぱり「これは私の喜び」というポイントではないかと、ふと思ったの。


それって、とってもピュアな本能の在り処。


あと、私の言動を日ごろ見ている娘が

「ママは"主婦"じゃないもんなぁ。子どもだもん。」とはっきりと言ったのよ(←オイ笑)

そしたら、それを聞いていた夫が

「よかよか。祥子は主婦にならんでよかと。」とすかさず言った。


主婦の仕事も、どうしても「義務的」になったり自分で自分に「強制的」になったりしちゃうんだけど、

これも「私の喜び」ポイントでやればいいんだ~って、もひとつ力が抜けた。


私たちって

「母親」にならなくていい。

「主婦」にならなくていい。

「何者か」にならなくていい。


「私の喜び」に忠実に過ごせば、それでいいんだって♡


誰かに「ありがとう」って言われた時

心の底から「それは私の喜びです」って言える自分がイイ。

それは最高に美しい在り方だと私は思う。


Love,

Shoko




今、わたしの「仕事」は喜びで溢れている。

今週水曜日は大好きなアンワンさんの展示会@糸島♡

お洋服、と~っても素敵だった。

デザイナーの上杉さんとのお話も愉しすぎた。

そして海を眺めながらアダンソニアさんのお弁当を食べ

海岸を散策。

これ、全部今のわたしの仕事です。

わたしは仕事を愛しているし、この喜びをみなさんと循環できることも嬉しい。

この喜びの循環を共有してくださっているみなさんに心から感謝しています。