こどもとおとな、その愛の関係性と成熟について
「きょうはおやすみする。ほいくえん。」
と朝起きてすぐに宣う三歳児。
一瞬よぎるのが
「今日おやすみしたら、ずるずる行きたくなくなるんじゃないか。」な~んて、私の中にもまだまだある変な思い込み。
娘の目を見ると、うるうるとしたまっすぐな瞳。
なるほど。
これは娘の正直な、まっすぐな、純粋な要求であると受け取った。
四月から通い始めた保育園でも楽しさを見出し、朝から夕方までの流れもつかんで、あんなに泣いて登園していたのが嘘のように、むしろ堂々とした最近の娘。
でも、とにかく、
「今日はおやすみしたい」のだ。
それ以上でもそれ以下でもなく、それが今朝起きた時の彼女の中から湧き出た正直な思いなのであった。
はい。OK。
おやすみの連絡を入れさせていただきました。
午前中、私はジムと支払い業務があったので、娘は私の実家へ。
ちょっとだけ公園で遊んで、午後は家に帰ると言うので、一緒に連れて帰った。
今日の午後は私も猛烈に眠かったので、お布団に寝ていたら、いつの間にか娘も隣で寝ていた。
そして、そのまま彼女、三時間半爆睡。
疲れてたのね。
急に暑くなったもんね。
からだとこころの要求に忠実な娘は、寸分の狂いなくすべて自分で決めている。
まだ三歳なので、その要求が通るか通らないかは、私の判断次第な時も多いけど、娘と向き合ってみると、「そう決めているんだ」ということだけがまっすぐに伝わってくる。
彼女の決断の潔さと狂いの無さには、毎回グッとくる。
だから、私はその邪魔をしないようにしたいし、でも、こっちの言い分も伝えるし、毎回真剣勝負。
からだ、こころ、魂が直通でツーツーの彼女は、私の先生でもある。
2歳の頃、私が勝手に決めた保育園へ連れて行った時は、「もうママの家には帰らない」と家出した。
そして、「三歳になって、四月になったら、〇〇保育園に行く」と宣言し、そして、その言葉通り、すぐに慣れて楽しく登園中。
「こども」ってなんだろう。
40年地球で歳を重ねてきた私より、こどもの方が「未熟」だとは決して決して思えない。
地球的に「できないこと」「慣れないこと」はもちろんあるし、そういう面では私の方が習熟しているけれど、「未熟」ではない。
からだが小さいし、未発達だから、できないことがあるから、慣れてないから、分からない部分があるから、言語化ができないからと
私たちはこどもを「未熟」で「教育すべき」「導くべき」存在だと、当たり前のように思ってしまうけれど、それは大きな大きな大間違い。
本当に成熟している大人、成熟しようと望み続けている大人は、それをよく分かっている。
だから、こどもは大人の先生役をしてくれている愛の存在に他ならない。
余計なものをくっつけくっつけして、それを勲章のようにぶら下げるような在り方は、「成熟」とは言わないよね。
でも、余計なものをくっつけくっつけしてきた自分を、また裸にしていくプロセスが「成熟」なのだから、くっつけくっつけしてきたことも、これもまた必要な過程であったと言える。
冬あってこその春。春あってこその夏。夏あってこその秋。秋あってこその冬。
のようにね。
そう。
何はともあれ、裸になっていく、自分になっていく、喜びの存在になっていくために、私たち大人にとって、こどもほどの先生はいない、ということなのです。
で、いつまでもこどもの世話になってないで、はやいとこ裸んぼの、自分そのものの、喜びでいっぱいの、「あぁ。大人って楽しそうだなぁ。」とこどもに憧れられるくらいの愉快なおとなになりたいものだと、眠りこける三歳児の背中をみながら思うアラフォー女子でした。
Love,
Shoko
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