奪われないわたし
今日は空を見上げると、「凶暴」レベルのわくわくが沸き起こってきました。
このわくわくを感じると、自分が10歳くらいに戻ったような氣がするの!
目にちからが宿るというか。
未来を見据える目、いまを見つめ切る目になる。
からだにちからがみなぎって、そう、宮崎駿監督の描く子どもたちの目の輝き。
あの輝きが、自分の中にあることを、改めて思い出す。
今日もブログへのご訪問ありがとうございます♡
たくさん書きたいことが沸き起こって、大変ですが(笑)、ホットなうちに書きたいと思います。
なので、短めに。表現したいことだけを。
「〇〇によって奪われた半生」だとかっていう記事の見出しを時々目にする。
でもね、私は、自分の人生を何かによって奪われることはないと思っている。
それは私に限らず、みんなが。
以前ね、ある人からこんなことを言われたことがあります。
「俺のせいで、人生めちゃくちゃになったって思ってるやろう?」と。
私は即答したよ。
「私の人生をめちゃくちゃにできる人間は私だけだ」って。
これね、頭で考えて出した言葉じゃないの。
肚(子宮)から出てきた言葉だった。
いじめ
離婚
ハラスメント
リストラ
DV
病気
怪我
などなど・・・
これらのせいで「人生がめちゃくちゃになった」「人生が奪われた」と言う人もいる。
でもね、本当にそうかな?
「わたし」の人生をめちゃくちゃにできるのは、「わたし」しかいないんじゃないかな。
わたしを「被害者」にするのは、加害者ではない。
「わたしは被害者だ」という、自分自身の意識だ。
私はあの時、子宮の声に救われた。
そして、肚に決めた。
私は、「被害者」にはならない。
私は、決して奪われない。と。
世間的にネガティブな意味合いを持つ経験は、その人から「ちから」を奪おうとする。
(それは、集合意識が、「奪われる」ということを信じているからなんだけど。)
そのちからとは、自分の人生は自分で舵を取っている、自分のことは自分で決めることができるという事実(真実)だ。
だけど、そのちからは、実は決して奪われない。
なくなったように見えても、絶対にある。からだはそれを失わない。
どんな物事でも、ポジティブに見てこ~♪なんていう明るい話ではないの。
ポジティブであろうとネガティブであろうと、関係ない。
もっと力強く、根底にあるちから。
ポジもネガも。
陰も陽も。
すべてを統合し、内包するちから。
そして、そのちからは、他者に対して発動するものではない。
あくまでも自分自神に発動する、いのちのちから。
私は、その「いのちのちから」を、肚の底から信じている。
それが人間のもつ本当の意味での「尊厳」であると思う。
Love,
Shoko
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