学ぶということ

学校での勉強を好きだった人って少ないと思う。


かっちゃん(夫)なんか、学校の記憶をほぼ消去している。

「これ小学生ん時習ったよね~」とか言っても「いや。自分は習っていない。」と言う。

「いや、これは絶対やったって!」と詰め寄っても「多分、自分たちの学年はやってないんだと思う。」と言い張る。(学年いっこ違うだけ)

そんなわけあるかよ~なんだけど、これうちではよくあるやり取り。


私はかなり記憶している方だとは思うけど、それは勉強が結構好きだったから。

どういう所が好きだったかと言うと、「あ~!それってそういうことだったのか~」って整理がつくからなんです。

日ごろ、ちょっと疑問に思っていたり、ここにはこういう法則がある気がするなぁ、とか思っているのを学校の授業で「これはこうなってるんだよ」って教えてもらうと、なるほど~となるわけで、とても面白いわけです。

それに、新しい考え方や視点を示してもらうと、「そういう見方もあるか~」とこれもまたとても面白い。


そして、学生時代から変わらず大人になってからも、私はとても勉強が好き。

と言うか、勉強が日に日に楽しくなっていく。


ここから勉強を「学び」という言葉に換えますね。


大人になって、日常的に本当にいろんなことが起きます。

現実に翻弄されている内は、そこから「学ぶ」ということより、「なんでこうなったんだ~」ってびっくりしたり不安になったり怒ったり悲しんだり、の方が強い。情念の部分が刺激されるわけです。(これ、刺激されることに意味があるんだけどね)


でも、だんだんと成熟していくと、上流に目がいくようになる。

根本的な部分に「今目の前で起きている現実」の原因があるのではないかと気づく。

「現実」は自分の外側で起きているのではなくて、自分の内側を反射しているだけなのではないかということに気づくわけですね。


そうなると、現実を見て自分を学ぶという、成熟のスパイラルに入っていきます。


ここで、先に述べた「学校での学習」というのが、日常の気づきに対する整理をしてくれる機能を持つってところに戻ります。


日常の中で、自分自身に主体的に向き合っていると、現実がすべて「学び」「気づき」のサインのオンパレードになってきます。


このオンパレードをひとりで消化し、整理できればいいんだけど、これはなかなか難しい。


そこで、その学びを整理し、繋げ、より高く広い視野を与えてくれるのが、私にとって本であり、講演会やWS、おはなし会だったりする。

信頼できる人たちとの会話、対話もそう。

また、気づいたことをこうやってアウトプットすることも、とても良い整理になります。


学びって、情報ありきではなくて、自分の主体性ありき、なんですよね。

そして、主体的に気づいたことをもとにしているからこそ、情報が生きてくる。


子どもたちの学びに対しても、ひとの人生に対しても、私は極力介入しないように気を付けたいなと思う所以です。


自分でやりたいと思うこと、自分で感じること、自分で気づくこと。


学びの一番大切な部分は、そこに在ると思うから。


それに加えて、自分の学びをひととシェアできるのは、格別な喜びです。



今日もこの文章を書けてスッキリ♥

早速ブログを読んだよって言ってくれる方もいらしてしあわせを感じています。


今日は「学び」についてでした~。


またお会いしましょう♪



Love,

shoko


風とたね

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